私の考え③「育休が根本的な解決策か」つづき2
お疲れ様です。
育休についての私の考えの続きです。
前回までに
- 育休の取得が必ずしも育児支援にはならない。
- 夫婦間で仕事と育児を役割分担として考えるべきではない。
- 育休を取らなくても、外で働くパパが育児の責任と負担を担うことはできる。
と意見を書かせていただきました。
今回は、外で働いている立場でも、育児にどう取り組むか、何ができるか、私が日々実践していることを踏まえて書かせていただきたいと思います。
一番重要な点は、簡単なことで
「育児に対して主体的になる」
ということだけです。
言い換えれば、
ママが日々の育児を主導するのではなくて、パパもママと同じように主体的に育児をとらえて行動するということです。
(今までこのブログで何回か書いて来たことです。)
主体的に育児に取り組むということは、具体的には、次のようなことができると思います。
①その日のプランを一緒に考える。
過ごし方(どこで、いつ(どれくらいの時間)だれと遊ぶかなど)、食べさせるものの献立などを自分で行うことのように考えて、提案する。
(そして1日のプランが決まれば、いかに以下の②と③を自分ができるかということを自然と考えられるようになります。)
②できる家事をする
皿洗い、洗濯、掃除、食事の準備など、家事は誰にでもできることなので、それらをいかに減らしておくかが、ママの育児の負担を大きく軽減します。
例えば、帰りに必要な買い物をする、夜皿洗いをする、朝洗濯をするなどすれば、仕事でいない間のママの育児が随分楽になると思います。
(家事と育児の同時平行が何より、育児を大変にしているからです!)
③日々の雑務の管理・実行
幼稚園、学校の行事関連の把握と提出物の準備、検診関係、公共料金の支払い、各種役所の手続などの雑務を管理または実行することで、育児をかなり助けます。
育児をしていると、各種手続きなどの社会的な雑務を完璧にこなすことは困難になります(育児で大変な中でうっかりミスをしても仕方ないと思います)。なので、パパがそういう日々の雑務を実行または管理してあげると、育児をしているママは育児に集中できて助かると思います。
(書類の作成や管理は外で働いている方のほうが、慣れていて円滑だと思います。逆に育児をしているとそういう日々の雑務がおっくうになってくると思います。)
このように、育児をパパとママとが対等に行おうと思えば、パパが主体的にできることはいくらでもあります。そうすることで、外で働いていても、育児の責任と負担を夫婦間で対等に近い形で担うことは十分可能だと思っています。
一方で、
「外で働いているんだから、それで十分社会的かつ家庭的役割を担っている。家のことをやるのは、過重な負担だ」と思う方々もいるかと思います。
違うのです。
子供を作った時点で、その責任と負担はそれまで背負っていたものに加算されて当然なのです。
(子供を作って育児をしないのは逆に無責任だと思います。家庭での無責任は、社会での無責任でもあり、無責任者は職場でも良い仕事ができるようには思えません。(過去の「私の考え②」などもご参照ください。)
繰り返しますが、
育児は夫婦で役割分担できるもの(すべきもの)ではないのです。どちらかがやって、どちらかがやらないというものではなく、対等にすることなのです。
そう考えられない人、今まで育児を任せっきりだった人は、ちょっと振り返ってみてください。そして、夫婦間で育児について話し合ってみてほしいと思います。
いろいろ述べてきましたが、
もちろん家庭によって育児や夫婦間の役割分担に関する考え方は違うと思います。
問題は、育児の責任と負担について、夫婦間での思いが一致していない場合が多いことだと思ってます。
(ママに知らずと育児の責任と負担が過剰にのしかかっていないでしょうか?)
私は育児は夫婦間でまったく「対等」にするべきであり、上の①から③で書いたようなことができると思います。
その「対等」の考え方は家庭によって違うと思いますが、繰り返しになりますが、夫婦の両者が育児を主体的に考えられるようになることがもっとも重要だと思います。
夫婦間の思いの不一致から生まれる不満が、最近は育児の負担となっているケースが多いように思います。
(「うちのだんなは何もやってくれない!」というストレスも育児の大きな負担になっていると思います。)
タイトルに戻りますが、育休を取得することがどの家庭にも通用する育児の解決策では決してないと思っています。逆に見せかけだけの育休はかえって育児の負担を増幅させることにもなりかねません。
両者が主体的に育児に取り組める状態になることこそが望ましいと考えています。
というわけで、育休取得を前もって宣言だけして、取るか取らないかウヤムヤにしている政治家たちは、はっきり言って私から見れば、「お話にもならない。顔を洗って出直せ!」と言いたくなるわけです。